わが町・取手①
こんにちは
最近ではTX開通によって隣接するM市やTU市に人が流れてしまって、
駅前はすっかりさびれてしまいましたが、バブル期は駅ビルが出来て、
それはそれは今と比べ物にならないくらいにぎやかでした。
戦国時代には大鹿太郎左衛門と言う名の武将がいて
その館、いわゆる「砦」があったことが地名の由来だそうですが、
平安時代にはすでに相馬御厨と言う朝廷直轄領らしきものもあり、
それ以前には市内小文間地区には中妻貝塚が存在しており、
比較的古くから人が定住していたようです。
昭和の大合併で近隣町村と合併し北相馬郡取手町となり
昭和45年に取手市になりました。
ちなみに北があれば南もあるってことで、千葉県側には
南相馬郡があったようでしたが明治時代?には
相馬と言えば福島県の地名と思われがちですが、
大本は取手を含む下総国の武将である相馬氏に由来する地名で
鎌倉時代に地頭職を得た相馬氏が陸奥国(今の福島県相馬郡付近)に
移住したのが始まりで、現在でも福島の相馬郡と交流が続いているようです。
江戸時代、取手は水戸街道の宿場町としてそれなりに栄えていたらしく
造り酒屋(田中酒造店)や奈良漬けで有名なシンロクもあります。
いまではすっかり淋しくなってしまった取手ですが、
少しでも取手を知って欲しいと思っています。
今回は小文間地区にある香取神社を訪問して見ました。
碑の裏側を見ると大勢の人たちの名前があります。
おそらく日露戦争に出陣し戦死された英霊の名前かと思われます。
この手の記念碑は結構多く見られますが、ここにも有ったのか?と正直思いました。
奥保鞏陸軍大将の揮毫があるのも当時彼は日本陸軍第2軍を率いて出陣しており、
その隷下部隊には第2連隊があったことから揮毫されたものと推察されます。
第2連隊はこの茨城県出身の兵士が多く、太平洋戦争ではペリリュー島で
大兵力で押し寄せた米軍相手に一歩も引かず30日以上も米軍を足止めし
その結果玉砕する悲劇の部隊でもあります。
取手とその周辺町村からも多くの若者が兵士として出陣していた訳で、
いまはほぼそんな歴史も忘れ去れていますが、事実として語り継いでいく事も
現代に生きる私たちの使命であると思っています。
では、また。